吉原町のおもしろ資料

「古事記」の日本神話
(あまり内容を理解できずに要約していますので、誤解もあるかも)











《「古事記」より要約》

 (天地開闢)
天地初めて発(ひら)けし時、高天の原(たかまがはら=天上界)に成れる神は、
  天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
  高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
  神産巣日神(かみむすひのかみ)
この三柱は獨神(ひとりがみ)で身を隠した。

次にまだ国が、浮いた脂のようで、くらげのように漂っている時、成れる神は、
  宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこじのかみ)
  天之常立神(あめのとこたちのかみ)
この二柱の神も獨神で身を隠した。

次に成れる神は、
 1. 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
 2. 豊雲野神(とよくもののかみ)
この二柱の神も獨神で身を隠した。

次に成れる神は、(夫婦神)
 3. 宇比地邇神(うひぢにのかみ)、妹(いも)須比地邇神(すひぢにのかみ)
 4. 角杙神(つのぐひのかみ)、妹活杙神(いくぐひのかみ)
 5. 意富斗能地神(おほとのぢのかみ)、妹大斗乃辨神(おほとのべのかみ)
 6. 於母陀流神(おもだるのかみ)、妹阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
 7. 伊邪那岐神(いざなきのかみ)、妹伊邪那美神(いざなみのかみ)
以上を神世七代(ななよ)という。

 (国産み)
天つ神は、伊邪那岐命、妹伊邪那美命に、「この漂える国を固め成せ」と、天の沼矛(あめのぬぼこ) を賜う。沼矛(ぬぼこ)を指し降ろして塩をかき混ぜて引き上げると、その先から滴り落ちる塩 が積もって淤能碁呂島(おのごろじま)ができた。(所在場所不明)
  (注:古事記では、「神」を宗教的、「命」を人格的意義に用いている。)
その島に天降って、結婚して、沢山の国土を産む。
 ・淡路島
 ・伊予の二名島(四国)、この島は四面あり、
   伊予の国は愛比賣(えひめ)
   讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)
   粟国は大宣都比賣(おほげつひめ)
   土佐国は建依別(たけよりわけ)
 ・隠岐の三子島
 ・筑紫島、これも四面あり、筑紫國、豊國、肥國、熊曾(くまそ)國。
 ・伊伎島(壱岐の島)
 ・津島(対馬)
 ・佐渡島
 ・大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま、大和を中心とする畿内の地域)
この八島を大八島國という。

その後還るときに、吉備の児島、小豆島、大島、女島、知訶島(五島列島)、 両児島(長崎県男女群島)を産んだ。
  (すべて瀬戸内海から九州の島であり、この時代、北はせいぜい佐渡島までしか知らなかったようだ。)

 (自然現象の神)
続いて、伊邪那岐命、妹伊邪那美命は、石や土、砂の神格化、屋根葺き、家屋の神格化、
 海の神=大綿津見神(おほわたつみのかみ)、河口、分水嶺を掌る神、風の神、木の神、
 山の神=大山津見神(おほやまつみのかみ)、野の神を産む。
 次は鳥のように天上や海上を行く船を産み、
次に火の神を産んで大やけどして、病気になって、咳や屎や尿から神ができる。
 尿(くそ)から出来た神は、ねば土の神格化。
 尿から出来た神は、彌都波能賣神(みつはのめのかみ=灌潮用の水の神)と
 和久産巣日神(わくむすひのかみ=わかわかしい生産の神)。この神の子は豊宇気毘賣神(とようけびめのかみ=食物を掌る女神)。
  (思うにこの時代は農耕時代であり、灌漑用水や肥料としての屎尿が大事であったことを物語っているようだ。)

伊邪那美神は火の神を産んだことが原因で亡くなった。伊邪那岐神が黄泉(よみ)の国まで捜しに行ったが、伊邪那美神は腐ってうじが湧いているのを見てしまう。 伊邪那岐神はそこで体が穢れて、御祓いのため滌(そそ)ぐときに、水の底・中・表面に応じて、底津・中津・上津の綿津見神と底・中・上 の筒之男命ができた。さらに、
 左目を洗ったとき天照大御神(あまてらすおほみかみ、日の神)、
 右目を洗ったときに月讀命(つくよみのみこと、月の神)、
 鼻を洗ったときに建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)ができた。
須佐之男命が姉の天照大御神の田畑を荒らし、馬の皮をはいで機織(はたおり)に投げつけ、乱暴の限りを尽 くしたので、天照大御神は天の岩戸に隠れて、世の中は真っ暗闇になった。そこで一計を考えて、 天宇受賣(あめのうずめ)が踊り皆が楽しく騒いだ。真っ暗闇のはずなのに怪訝に思った天照大御 神が岩戸を少し開けて外をのぞいたときに、天手カ男命(あめのたぢからをのみこと)が天照大御 神の御手をとって引っ張り出したので、外は明るくなった。(古事記では、天手カ男命が天の岩戸を引き開けたとは書いてない。)
須佐之男命は神の地(高天原)を追放されて、(葦原の中つ国の)出雲の国を歩いているときに、川 上から箸が流れてきたので、川を遡ってみると、老夫婦(足名椎・手名椎)が若い娘を間に置いて泣い ていた。理由を聞くと、元は八人の娘がいたが、毎年八俣の大蛇(やまたのおろち)がやってきて、 一人ずつ食われて、遂に最後の娘を食いに来るときが来たので、泣いているという。そこで八つ の器に酒を入れて待っていると、ほおづきのような真っ赤な目をした八俣の大蛇が来て酒を飲み干し、酔ったところを切り殺した。
尾を切っていると刀の刃がこぽれた。おかしいと思って切り開くと、草薙の太刀が出てきた。

須佐之男命は助けた娘、櫛名田比賣(くしなだひめ)と結婚して、神を産んだ。その子孫は大山津 見神の娘や色々な神の娘を娶って、次々と神の子を産んだ。6代目の子孫が刺國大神(さしくにおほのかみ) の娘である刺國若比賣(さしくにわかひめ)を娶って生まれた子が須佐之男命から七代目の、大國主神である。 またの名は大穴牟遲神(おほなむぢのかみ)、葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、宇都志國玉神(うつし くにだまのかみ)という5つの名前がある。 大國主神の兄弟の神がたくさんいて、稲羽の八上比賣(やがみひめ)が美しいということで結婚を申込に行くことにしたが、大国主神の方がもてるので、大穴牟遲神に荷 物の袋を背負わせてしもべのように見せて、因幡に向かう途中、皮をむかれて苦しんでいる兎がいた。(因幡の白兎通り の話なので省略。「大きな袋を肩に掛け、大黒様が来かかると・・・」という歌があるが、大黒天・毘沙門天・弁財天・帝釈天などは仏教が従えてきたヒンドゥー経の神様なので、神仏混淆のせいか話がこんがらがっている。)

大國主神(おほくにぬしのかみ)が出雲にいるときに、天の羅摩船(かかみぶね、ガガイモの実の船)に乗って、 蛾の皮を衣服にして海の向こうからやってくる小さな神様がいた。だれもその神を知らず。かかしの神に名前を聞かせて みると「神産巣日神(かみむすひのかみ)の御子、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)であるぞ」 と答えた。そこで御先祖の祠へ行き、神産巣日命に申し上げると「間違いなくわが子である。大國主神と兄 弟になってこの国を作り固めよ」と言われた。そこで二柱の神でこの国を作り治めたが、少名毘 古那神は常世の国(海のかなたにあるとこしえの齢の国)へ行ってしまった。(草の茎にとまってい るときにはじかれて飛んでいった、ともいう。)

 (葦原中つ国の平定)
天照大御神の命をもって、「豊かな葦原で長く久しく稲穂の実る水穂の国は、我が御子、天忍穂耳 命(あめのおしほみみのみこと)の治める国ぞ」、と宣言して天降りさせたが、天忍穂耳命は天の浮 橋に立って見下ろし、「水穂の国はひどく荒々しくて治められない」、と言って、還り上って天照 大神に報告した。そこで、高御産巣日神と天照大神は、天の安の河原に八百萬(やほよろづ)の神 を集めて、荒ぶる国つ神どもを説得するには誰を遣わしたらいいか協議した。そこで天菩比神(あ めのほひのかみ)を遣わしたが、三年経っても帰ってこない。次に天若日子(あめのわかひこ)を遣 わしたが、大国主神の娘を娶って、八年経っても報告してこない。そこで、建御雷之男神(たけみ かづちのをのかみ)を遣わした。建御雷神は天の鳥船の神(雷神が乗る船)を伴って、出雲の国の伊 那佐の小濱に降り至って、大国主神に「葦原中国は天照大神の御子が統治する国だぞ」、と宣告し たら、「我が子の代になっているから自分は答えられないので、我が子の八重言代主神(やへことしろぬしのかみ)に言ってくれ」、 とのこと。どこかへ遊びに行っている八重言代主神を捜し出して問い詰めたら、「この国は天つ神の御子に奉らむ」と答えた ので、大国主神に「汝の子、言代主神はこう言ったぞ。ほかに聞くべき子はあるか」、と問うと、 「また我が子、建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。これ以外には無し」と言う。そうする うちにこの建御名方神がやってきて「わが国へ来て何をこそこそやっているのか。カ競べで決し よう」といった。建御雷神が建御名方神を投げ飛ばし、殺そうとしたところ、命乞いをして「こ の葦原中つ国は、父大国主神に従い、八重言代主神に従い、天つ神の御子に献じる」と言った。

 (大国主神の国譲り)
更にまた戻って大国主神に問い、「汝の子等二柱の神は、天つ神の御子の命に従うと言ったが、汝 の心はいかに」と問うた。大国主神は「我が子等の言うとおり、この葦原の中つ国は命のままに 献じる。但しわが住処に壮大な宮殿を作って下さるなら、我が子等、百八十神は、神々の先頭に 立ちまたしんがりとなって仕える。出雲の国の多藝志(たぎし)の小濱に宮殿(出雲大社のこと)を建て、料理を作 りもてなす」といった。建御雷神は返り上って、葦原中国を平定した様を報告した。

 (天孫降臨)
天照大御神は日嗣の御子、天忍穂耳命に向かって「今、葦原中国を平定した。降って治めよ」と いったら、天忍穂耳命は答えて「降ろうと準備している間に、子が生まれた。名は天津日高日子 番能邇邇藝命(あまつひこひこほのににぎのみこと)という。この子を降ろすべし」と申し上げた。
ここに日子番能邇邇藝命が天降りしようとするときに、「途中の分かれ道にいて、先導しましょう」 と国つ神の猿田毘古神(さるたびこのかみ)が申し出た。
ここに、天兒屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、伊斯許理度賣命(いし こりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)のあわせて五職種の長を従えて、天降した。高 天原の岩石の御座を離れ、八重にたなびく雲を押し分け、天の浮橋から、筑紫の日向(ひむか)の 高干穂の嶺に降り下った。
邇邇藝命は笠沙(かささ)の御前(みさき)で麗しい美人に出会った。誰の娘かと問えば、大山津見 神の娘、神阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花の佐久夜毘賣(このはなのさ<やびめ) という。「汝に兄弟あるか」、と問えば、「我が姉、石長比賣(いわながひめ)あり」と答えた。「婚 姻したい」といったら、「父に聞いてくれ」、というので、その父大山津見神に申し入れたら、い たく喜ばれ、その姉石長比賣も副えてよこした。しかしこの姉はいと醜き女だったので、お返し して、木花の佐久夜毘賣とだけ一夜をともにした。大山津見神のいうには、「二人をつけて奉った 意味は、石長比賣を使えば、雪が降ろうと風が吹こうと、岩のように天つ神の御子の命は不動で あるが、それを返して木花佐久夜毘賣だけ留めたということは、天つ神の御子の御命は木の花の ようにもろくはかないものとなるでしょう」と言った。故にここをもって今に至るまで天皇たち の命は長くは続かない。

 (海幸彦と山幸彦)
後に木花の佐久夜毘賣が妊娠したと申し出た。天つ神の御子のいうには「たった一夜の交わりで 妊娠したのなら、我が子ではあるまい。国つ神の子にちがいない」というので、佐久夜毘賣は「我 が子が国つ神の子なら無事ではあるまい」と、出入り口の無い大きな家を作って、土で塗り塞い で、火をつけて、その火が燃え盛るときに産んだ子が、火照命(ほでりのみこと)、次に産んだ子 は火須勢理命(ほすせりのみこと)、その次に産んだ子は火遠理命(ほをりのみこと)、またの名は 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほてみのみこと)、の三柱。火照命は海幸彦として海 の獲物を取り、火遠理命は山幸彦として山の獣をとる。あるとき火遠理命は兄の火照命に、獲物 を取る道具を取りかえっこしてみようと申し出たが三度とも断られ、その後遂に交換したが、魚は釣れ ず、釣り針を失くしてしまった。兄から責められ、海辺で悲しんでいたら、塩椎(しおつち)の神が小船を作 ってくれて、「これで綿津見神の宮へいける。その御門に着いたなら、傍らの井戸の上に湯津香木 (ゆつかつら)があるので、その木の上におれば海神の娘に会える」と言った。教えられたとおり に行ったら、そのとおりになり、木の上で待っていたら、海神の娘、豊玉毘賣の下女が出てきて、 豊玉毘賣に会うことができた。そこで三年過ごした。豊玉毘賣は妊娠したといい、天つ神の御子 は海原で産むべきでないというので、海辺のなぎさに産屋を造った。産屋で生まれた御子は、天津日高 日子浪限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)という。その 御子を育てるのに、妹の玉依毘賣(たまよりびめ)を付けてよこした。日子穂穂手見命は高干穂の 宮に五百八十歳までおられた。御陵は高干穂の山の西にあり。天津日高日子浪限建鵜葺草葺不合 命はその叔母玉依毘賣命を娶って、生ませた御子の名は、五瀬(いつせの)命、次に稲氷(いなひの) 命、次に御毛沼(みけぬの)命、次に若御毛沼(わかみけぬの)命、またの名は豊御毛沼命、またの 名は神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこの)命(=神武天皇)の四柱。御毛沼命は波の穂を跳んで 常世の国へ渡った。稲氷命は母の国として海原に入った。

 (神武天皇東征)
神倭伊波禮毘古命はその同母兄五瀬命と高千穂の宮に坐して相談した。「どこに行けば平らかに天 の下の政ができるだろうか。東へ行こう」と言って、日向を出発して、筑紫に行き、豊国の宇沙(大 分県宇佐)で饗応を受けた。筑紫の岡田宮(書紀では筑紫国崗水門)で一年いた。その国よりのぼり 出て、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)に七年いた。その国より出て、吉備の国高島の宮に八年 いた。

(以下、略)



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